- 宗派 真宗大谷派
宗祖 親鸞聖人
本山 京都東本願寺
本尊 南無阿弥陀仏
教え 本願を信じ念仏を申さば仏になる
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- 真宗大谷派(東本願寺)沿革
- 【親鸞聖人】
親鸞聖人は、1173年(承安3年)、京都の日野の里に、藤原(日野)有範の長男としてお生まれになりました。
平安貴族の時代が終わりを迎えようとしていた時期です。
地震や大火が相次ぎ、飢饉や疫病が流行。都には死者があふれていました。
9歳の時に出家得度(僧侶となるための儀式)され、その後、比叡山に登り29歳まで仏教の勉学に励まれました。
20年間、聖人は比叡山で厳しい修業をされましたが、煩悩を越えて真実の救いを見出すことは出来ないことに気づかれ、すべての人が平等に救われる道を求め、聖人は比叡山を下りる決心をされました。1201年(建仁元年)のことです。その後、聖人は法然上人のもとを訪ねられるのです。
比叡山を下りた聖人に法然上人は説かれました。
「どんな命も尊いことを教えてくださるのが阿弥陀仏であり、阿弥陀如来に帰命して南無阿弥陀仏と称えるならば、善人も悪人も、老いも若きも、男も女も、生まれや才能も問わず平等に救われる」と。
その教えは煩悩を超えるために修業を重ねてきた聖人には大変な驚きでした。そしてこの出会い以降、念仏を依りどころとして生きていかれ、法然上人を生涯「よきひと」と仰いでいかれました。
念仏による平等の救いを説く教えは、様々な価値観や束縛から多くの人を解放することになりました。
しかし、古くからあった仏教教団や権力者の反感を買うことにもなりました。そして1207年(承元元年)朝廷より専修念仏停止の命令が下り、法然上人のお弟子4人が死罪、法然上人は土佐(高知県)へ、聖人は越後(新潟県)へ流罪に処せられました。聖人35歳の時です。
越後で聖人が見たものは、厳しい自然環境の中でも、一日一日を懸命に生きている人々の姿でした。
今日を生きることに精一杯なこの人々こそ、本願を信じ、念仏申す人々であると聖人は切実に感じられました。聖人はこの地で恵信尼公(えしんにこう)と結婚され「愚禿釋親鸞」(ぐとくしゃくしんらん)と名乗り、お念仏の教えをこの地の人々の姿に聞いていきたいという志願が深く心に担われていくのでした。
越後に流されて5年、1211年(建暦元年)に法然上人とともに罪は許されます。しかし聖人は京都へ戻らず 、しばらく越後にとどまり、その後、関東地方へ向かわれます。そして約20年にわたり、本願念仏の教えを多くの人に語り伝えていかれました。
その日々は同時に、悲しみ、苦悩の多い生活を送るものにとって、念仏の教えがどれほど大切かを確かめる日々でもありました。
そして関東で聖人は、浄土真宗の根本聖典となる「顕浄土真実教行証文類」(教行信証・きょうぎょうしんしょう)を書き進められたといわれています。
その後聖人は60歳を過ぎてから京都に帰られます。住所を1か所に定めることもままならない状況でしたが、聖人は関東の御門徒にたくさんのお手紙をお書きになり、お念仏の教えを伝えられました。
また、『教行信証』の推敲を続けられるとともに、多くの人に真宗の教えを伝える著作や聖教の書写に力を尽くされました。
1262年(弘長2年)11月28日、京都で生涯を閉じられるまでの90年にわたるその生涯は、念仏に生き、浄土の真宗をあきらかにし続けた一生でした。
【本山 真宗本廟(京都 東本願寺)】
真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173~1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことに起源します。
親鸞聖人の娘覚信尼(かくしんに)は門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職(るすしき)」として真宗本廟の給仕を務めました。
真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されております。
【蓮如上人】
戦国乱世の時代、第8代蓮如上人(1415~1499)は、その生涯をかけて教化にあたり、宗祖親鸞聖人の
教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていきました。
このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興の上人(中興の祖)」と仰いでおります。
- 参考:東本願寺HP